日月神示 地震の巻 第三帖

第三帖

 

 愛の影には真があり、真の影には愛がはたらきます。地上人の内的背後には霊人があり、霊人の外的足場として、地上人が存在します。地上人のみの地上人は存在せず、霊人のみの霊人は呼吸しません。地上人は常に霊界により弥栄します。弥栄は順序、法則、形式によりて成ります。故に、順序を追わず、法則なく、形式なき所に弥栄なく、生れ出て呼吸するものはあり得ません。個の弥栄は、全体の弥栄です。個が、その個性を完全に弥栄すれば全体はますますその次の弥栄します。個と全体、愛と真との差がますます明らかになれば、その結合はますます強固となるのが神律です。霊界と物質界は、かくのごとき関係に置かれています。そこにこそ、大生命があり、大歓喜が生まれ、栄えゆくのです。さらに、極内世界と極外世界とが映像され、その間に中間世界がまた映像されます。極内世界は生前、極外世界は死後、中間世界は地上世界です。極内は極外に通じて(渦の印)を為す。すべて一にして二、二にして三であることを理解しなければなりません。かくして、大神の大歓喜は、大いなる太陽と現れます。これによりて、新しくすべてが生まれ出る。太陽は、神の生み給えるものですが、逆に、太陽から神が、さらに新しく生まれ給うのです。(渦の印)は絶えず繰り返され、さらに新しきすべては、神の中に歓喜として孕(はら)み、生まれ出て、さらに大完成に向かって進みゆく。親によって子が生まれ、子が生まれることによって親が新しく生まれ出ずるのであることを知らねばなりません。されば、その用においては千変万化です。千変万化なるが故に、一です。一なるが故に、永遠なのです。愛は愛に属するすべてを愛とし、善となさんとするが故に悪を生じ、醜を生ずるのです。悪あればこそ、善は善として使命し、醜いあればこそ、美は美として生命するのです。悪は悪として悪を思い、御用の悪をなし、醜は醜として醜を思い、御用の醜を果す。共に神の御旨の中に真実として生きるのです。真実がますます単にしてますます充実し、円通する。されば、(〇の中にゝの印)の中のゝなる(〇の中にゝの印)のゝの中なる一切万象、万物中の最も空にして無なるものの実態です。これが、大歓喜そのものであって、神は、このゝに弥栄し給えるが故に、最外部の(〇の中にゝの印)の外にも弥栄し給うことを知覚し得るのです。始めなき始めのゝの真中の真空にいるが故に、終わりなき終わりの(〇の中にゝの印)の外の無にいまし、中間に位する力の(渦の印)の中にも生命し給うのです。一物の中のゝなるが故に一物であり、万象万物であることを知覚しなければなりません。生前の様相であり、呼吸するが故に死後の呼吸と続き、様相として弥栄ゆるのです。神が生み、神より出て、神の中に抱かれているが故に神と同一の歓喜を内蔵して歓喜となります。歓喜に向かうとは親に向かうことであり、根本に通ずることです。世を捨て、外分的、肉体的諸欲を捨てた生活でなければ、天国に通じ得ぬと考えるのは誤りです。何故ならば、地上人における肉体は、逆に霊の守護をなす重大な役目を持っているからです。地上人が、その時の社会的、物質的生活を離れて、霊的生活にのみ入るというのは大いなる誤りであって、社会生活の中に行ずることが、天国への歩みであることを知らねばなりません。天国を動かす力は地獄であり、光明を輝かす力は暗黒です。地獄は天国あるが故にであり、暗は光明あるが故です。因が果にうつり、呼が吸となりゆく道程において、歓喜はさらに歓喜を生みます。その一方が反抗すればするだけ他方が活動し、また、強力に制しようとします。呼が強くなれば吸も強くなり、吸が長くなれば呼もまた長くなります。故に地獄的なものも天国的なものも同様に神の呼吸に属し、神の脈打つ一面の現われであることを知らねばなりません。天国に限りなき段階と無数の集団があると同様に、地獄にも無限の段階と無数の集団があります。何故ならば、天国の如何なる状態にも対し得る同様のものが自らにして生み出されねばならないからであって、それにより、大いなる平衡が保たれ、呼吸の整調が行われるからです。この平衡の上に立つ悪は悪ではなく、偽は偽でなく、醜は醜でなく、憎は憎でなく、また地獄は地獄ではありません。地獄は本来ないのです。また、この平衡の上に置かれた場合は、善も善でなく、美も美でなく、愛も愛でなく、そこでは、天国も天国ではありません。ただひたすらなる大歓喜が弥栄ゆるのみなのです。